Kobby loves 埼玉&レッズ

埼玉と浦和レッズについて、いろいろ書いた記事です。

左右両方のアタッカー(梅崎司)


今日はネタがないので穴埋めネタです。ミシャサッカーで選手生命を延ばしたのは、両ウイングの梅崎司宇賀神友弥だと思います。梅崎は大分時代はトップ下だったので、ゲームメーカーだと期待していたら実はタイプが違ったという、昔を思い出しました。

梅崎は、2008年に大分から浦和に、トップ下という期待で移籍してきました。当時、不動のトップ下だったポンテが膝の靭帯断裂で長期離脱しており、その代役が期待されていました。しかし、当時の監督オジェックは梅崎でなく山田暢久をトップ下に起用しました。

ただ、山田暢久はボールの出し手ではなく受け手なので、ゲームメーカーのポンテの代役には向いていませんでした。開幕から2連敗した浦和は、オジェックを解任してコーチのエンゲルスを後任に据えました。エンゲルスは梅崎の特徴を最初に見いだした監督になりました。

梅崎は、大分時代はトップ下でしたが、印象に残っているのはパスでなく、サイドをえぐるドリブルでした。エンゲルスが梅崎に、ドリブルの自由を与えたことで、左右両方を仕掛けられるトップ下として機能するようになりました。しかし、ポンテに代わって途中出場した国立競技場の柏戦でミスをしたのがきっかけで、ポンテ復帰後は使われなくなりました。

その後、梅崎は負傷に次ぐ負傷で、フィンケ時代の2年間を棒に振ります。当時のフィンケサッカーは4-4-2で、梅崎に最も向いていると思っていた、左のMFというポジションがあったのでもったいないという思いでした。そのため、そのポジションには当時17歳だった原口が台頭して、梅崎の存在は忘れかけていました。

しかし、ペトロ時代の2011年、低迷した浦和を救うべく途中就任した堀監督が、切り札に選んだのが梅崎でした。当時の4-1-4-1は両ウイングの梅崎、原口を生かすためのシステムで、その意図がはまって横浜FMと福岡に勝って辛くも残留を決め、「梅崎システム」の成功にはサポとしてほっとしていました。

翌2012年のミシャにも、左のアウトサイドというポジションで起用された梅崎は、ミシャの信頼も勝ち取って現在に至ります。今季は最も得意なシャドーに石原、高木俊幸、武藤と大量に補強されていますが、ACLとの掛け持ちの強行日程で出番をもらっています。まだ、彼の力が必要になるときは来るはずと思っているので、活躍を願っています。