
浦和レッズ敗戦のため、レッズの選手を取り上げるネタはできず、相手のFC東京から長友佑都選手の記憶です。長友の名前を最初に聞いたのは、北京五輪予選で消化試合になった最終戦のマレーシア戦に、当時明治大学の三年生だった彼が出場していたときです。当時から、圧倒的なスピードと、左右両方のSBができる能力を持っていました。
もっとも、長友は遅咲きの選手で、明治大学でも二年生の途中までレギュラーになれず、一年生のときは応援団で太鼓を叩いていたというエピソードがあります。彼の著書によれば、開花以前はベンチプレスで重い重量を上げても成果につながらず、体幹を鍛えるように調整法を見直したことが、開花につながったとあります。
長友は大学四年生のシーズンを、明治大学ではなくFC東京とプロ契約を結ぶ決断をしました。母子家庭だった彼は、これで学費の心配をしなくて済むと喜んでおり、背番号も即戦力の期待の「5」でした。当時、味の素スタジアムで長友がボールを持つと、その高い身体能力で何かやってくれるのではと、スタンドがざわめいたことが印象的でした。
海外挑戦についてはクラブと約束を交わしていて、クラブでタイトル、五輪代表入り、日本代表入りなどのすべての条件をクリアして、セリエAのチェゼーナ移籍を勝ち取りました。チェゼーナは強いチームではなかったですが、何度でも空走りができる彼の身体能力はすぐに上位チームの注目となり、在籍半年で名門のインテルからオファーを受けて移籍します。
このインテル時代が、彼の最も輝いた時期になりました。インテルレベルのチームになると、チームメイトは「代表キャプテン」「代表100試合」などという選手がたくさんいます。この時期を、「毎日がW杯本大会のよう」と表現していました。長友とポジションを争った、ルーマニア代表SBキブは、どうしても長友にチャンスを与えたくないと、負傷をこらえて交代を拒否したエピソードも思い出します。
W杯にも4大会連続出場しました。2010年の南アフリカ大会当時は岡田監督が長友を信頼しており、相手のスピード型アタッカーのいるサイドに長友を置くという起用がなされました。今は古巣FC東京に戻りました。彼の言葉の「ブラボー」でも注目されましたが、身体能力があまり落ちていないので、まだまだFC東京でSBとして起用されると期待しています。